自分とのつきあい方―自己肯定感について考える―

自己嫌悪で辛かったり、自分に自信が持てなくて悩んでいる方へ。

とにかく人に打ち明けること!【経験談その3】

こんばんは。昨日「嫌われる勇気」というタイトルで記事を書いたらアクセスが一気に増えてびっくりしました。多分多くの人が求めていた記事とは違ったと思いますが(笑)。

今日は、体験談その3を。

自分の顔や体、脳、性格全てが嫌いなまま大学に入ったところから書きたいと思います。正直言って1年生の頃はサークル活動に夢中になれたので、あまりそういうことを考える暇がありませんでした。楽しく過ごしていたと思います。ですが、2年生の後期ごろから再び自己嫌悪病が表立って生活に表れてきました。理由は割愛しますが、内容を書くと

・自分はコミュ力がないからなんとかしなきゃと思い人と無理やりにでも話すようにしたが、とにかく話していてしんどい

・飲み会とかで気が利く人を目にすると激しく落ち込む

・自分は社会不適合だと強く感じる

・多分人から見るとすごくおどおどしている

・自分の短所は10箇所くらい思いつくのに長所は一つくらいしか出て来ない

・夜眠れない、泣けてくる

という感じでしょうか。高校生の頃と比べて、より「こんな劣っている人間は社会に必要とされていない」という気持ちが強くなってしまいました。劣等感と将来どうしようという重いかたまりが何をしていても胸の中にあって、常にとてもしんどかったです。今思えばバイトで夜遅くなり、生活リズムが崩れたことも一因だったかもしれません。深夜は思考がどうしてもマイナスに向かうので…。

そんな状態で3年生の冬が来てしまい、就活に突入します。今思えばよくそんな長所思いつかない状態でやってたなあと。しかし、就活でいいのかという悩みと上記の自分が嫌いだという悩みが相まって、真面目にやることもできませんでしたしもちろん内定ももらえませんでした。

ただ、同時に回復のきざしが見えたのもこのころでした。回復に向かう原因となったように思うことは前の記事でも書いていますが、ここでまとめて整理しておきますね。

・人に正直な思いを話す

・自分の長所について考える

・自分の長所と短所を人に尋ねる

・エニグラム診断をする

・ひとり自然の中でぼーっとする時間をつくる

・ひとり旅をする

・「自己評価」についての本を読む

・劣等感で辛かった記憶を洗いざらい書き出して、思う存分泣く

などですね。それぞれが具体的にどんな風に作用したのかは、次回書きます。

で、とりあえず言いたいのは、人に打ち明けろ!ということです。これが一番大きなきっかけだったかな。人に話すと、自分では重大な欠点だと思っていたものが案外人にとってはそうでもない、ということがわかります。言われたときは全然納得できませんでしたが、その言葉は後々心の支えになってくれています。

心を許せる友人や恋人、家族がいるなら、勇気を振り絞って話してみてください。私も、話して理解されなかった場合回復不可能なダメージを受けるだろうと思っていたので、話すことをずっとためらっていました。でも、信頼できる人なら、案外あなたのどんな話も受け入れてくれると思います。しっかり見極めながら、勇気を出してみてください。

もしも、周りにそういう人がいないなら、私でよければ話はお聞きします。専門家ではないですし、有効なアドバイスができるとも限りませんが、少なくとも全くの無理解、ということはないと思います。

メールアドレスはr921k4u@gmail.comです。アットマークが大文字になっているので、送る際は半角に直してくださいね。

できればご自分の身近な人に相談するのがいいと思いますが、それができそうにない場合に話を聞いてもらえる人がいるというだけで違うかな、と思ったのでメールアドレスを公開してみました。商売等ではないですし、私ひとりでやっているブログなので他の人に漏れる心配もありません。劣等感や自己肯定感の低さで悩む方の力になれたら、と思ってやっている点は信頼してもらえると嬉しい、かな。

それでは、今日はこのあたりで。

 

夕(ゆう)

r921k4u@gmail.com

「嫌われる勇気」

こんにちは。三寒四温とはまさにこのこと、と実感する日々です。

今日は、2月も終わったので目標だった「自信満々に生きる」(堂々と生きることは義務である - 自分とのつきあい方―自己肯定感について考える―)についての報告を。

結論から言うと、そんな曖昧なもん守れたかどうか分からんわ、と思いました(笑)。自信なくしてた時もなんだかんだあっただろうし。目標としてそもそもよくなかったですね(笑)。

ただ、得たものもあります。それは「嫌われる勇気」が少しだけ出た、ということです。(有名な『嫌われる勇気』は読んでいないので、ここではそのままの意味です。今度読もうと思います。)実は、バイト先のわりと仲の良かった先輩が最近冷たいなと感じていたのですが、今までだとそういうときはその人の前でおどおどしてしまっていたんですね。でも、とりあえずやることをやっていればいいや、と開き直って、堂々と、はきはき接するようにしました。結果、最近はまたふつうに笑顔を見せてくれるようになりました。心の底でどう思われているかは知らないですが、表面的っでも普段いやな気持ちになることはないしこれでいいかなと思っています。

その中で「ああ、これが嫌われる勇気なんだな」と実感しました。基本的に誰にでも好かれたいタイプで嫌われることにすごく抵抗があったのですが、そんなことは無理だと皮膚感覚であきらめることができたように思います。これまでは頭では理解していたつもりでしたが、嫌われるのはやっぱり自分にだめなところがあるからだ、と思っていた部分が大きかったんですね。でもだめなところなんて誰にでもあるし、自分は自分のいいところを守って生きていればいいかな、と。それで嫌われたら仕方ないと思えるように少しだけなった気がします。

最初から嫌われてもいい、と開き直ることは結構難しいですが、相手が冷たくても堂々としているところから始めれば少しはそういう気持ちが身に付くかもしれません。そういう意味では、「常に堂々としている」を自分に課してよかったなと思います。一度やってみることをおすすめします。

3月は、いわゆる「ヒーリング系」の本に書いてあることをくそまじめに実行してみようと思います。たとえば毎日鏡に向かって「あなたはそのままで愛される価値がある」と声に出して言うとか(笑)。書いていても恥ずかしいですが、実際に効果があるかもしれませんからね、実験してみようと思います。また報告します。それでは。

 

苦手の原因を考えるなかれ【経験談その2】

こんにちは。最近暖かくなってきましたね、春を感じられて嬉しいです。

さて、前回は自分の体験から「劣等感が染み付く前に逃げろ」という話をしました。今回は、じゃあ劣等感が染み付いた結果どうなったのか、ということを書きたいと思います。

高校3年生の6月に部活を引退し、毎日練習で「自分は人よりできない、劣っている」と感じ考えてしまうような日々は終わりました。じゃあそこから自分に自信を持てたかというと、逆なんですね。自分はもっとバスケットボール以外の他の面でも根本的に人より劣っているのではないか、という思いがだんだん強くなってしまいました。

たとえば、自分の顔がどんどん嫌いになりました。もともと奥二重なのでぱっちりした目ではなかったり、歯の矯正をしたため顎関節症気味だったりするのですが、それらが「自分が遺伝子レベルで劣っている証拠」と感じられました。

それと、パッと瞬間的に物事を判断することが得意ではなかったり、何かに集中すると周りの音が全然聞こえなくなってしまったり、そういうところも自分が「認知的に普通じゃない」んだ、と認識していました。

そしてこれが後々一番厄介だったのですが、コミュニケーションにすっかり自信がなくなってしまいました。「認知的に劣っているから人とうまく会話できない」「面白いことを言えない、会話が続かない自分が嫌い」「気が利かない自分はだめだ」「他人に興味がないというのが根本的な問題だ」、そんな思いがずっと頭の大半を占めていた気がします。そして、どんな人としゃべっても劣等感が付いて回るんですね。相手が面白いことを言えば、表面では笑いながら内心「なんで自分はこんなに面白くないんだろう」と絶望し、気の利く対応をしてくれると「私にはこんなのは無理だ」と落ち込んでいました。それまで人との接し方に疑問を持ったことはなかったのですが、「自分はコミュニケーション能力がない」という思いがじわじわと広がっていきました。でも逆に、自分よりコミュ力がないなと思う人は見下して、安心して付き合っていました。劣等感を常に感じているって本当にしんどいので、人を見下さずにはいられなかったんだと思います。

集中力はあるのでほとんど勉強では苦労しなかったのですが、そんなことは全く自己肯定感を高めませんでした。逆に「自分は勉強しかできないんだ」といった思考に陥りがちでしたね。

今考えると、自分のだめなところ、嫌いなところをあほみたいに一般化し広げていたな、と思います。たとえば「自分はパッと物事が判断できる方ではない」→「なぜだろう?」→「認知的に劣っているからだ」→「だから即時的なコミュニケーションや気の利かせ方をすることもできないだろう」という具合ですね。苦手なことを克服しようとして苦手な原因についてつきつめて考えると、育った環境や生まれ持った遺伝子によって何かしら自分が歪んでいる、劣っているといった結論になりがちです。でも、育った環境や認知的なものを変えることはできません。だから苦手な原因について考えても何の解決にもならず、逆に自分の駄目なところをさらに「発見」することにつながります。

勉強では、苦手教科を克服することが志望校合格や成績アップのためには一番効率のいい方法だと思います。でも、人生や自分自身はそうじゃない。苦手なことを人並みにするために原因を探るよりも得意なことを探した方がよっぽど効率的で、幸せに生きられる方法です。自分の短所や欠点を認識することは大切ですが、だからといって卑屈になったり絶望したりする必要は全くない。認識しながらも、長所を発見し、それをうまく生かすことが何より大事なんだと思います。それが自分自身を受け入れるということですよね。

次は、大学に入ってからの話をしたいと思います。

苦手なことからは逃げたっていい【経験談その1】

何回かに分けて、自分のことを少し書いてみます。

それぞれの記事にたまにぼかした感じで書いたりはしていたのですが、一度整理しておいた方がより言いたいことが伝わるかなあと思ったので。

私が自己肯定感を失った直接のきっかけは、高校の部活動でしていたバスケットボールでした。

中学校の時にバスケ部に入り、一番下手だったんですが、それでも高校でバスケを続けることを選びました。理由は、下手なまま終わってしまうのが悔しかったというのと、中学校の頃は貧血で運動自体が非常にしんどかったから、それでうまくなれなかったのだという思いからです。貧血は薬をきちんと飲んでいれば大丈夫なので、今度は薬をきちんと飲んで練習すればうまくなれる、頑張ろうと考えました。

それで、高校でもバスケ部に入り、自分で言うのもなんですが相当努力したと思います。もともと負けず嫌いなのもあって、毎日誰より早く朝練・練習に行って練習し、家でも30分~1時間くらいはボールハンドリングや筋トレをしました。テスト期間中も外を走って体力を落とさないように気を付けていました。毎日練習の反省のノートも書いていました。

中高一貫校だったので中3の夏から高校の部活に参加しており、それからずっと上のような生活を続けていました。寝ても覚めても部活のことしか考えていませんでした。でも、全然上手になれませんでした。客観的に見てどのくらいかは分かりませんが、部活の誰よりもボールを扱うこと、パスやキャッチ、ドリブルが下手でした。そして高校2年生の春、中学1年生が練習しているのを見て、1年半頑張っている私より始めて1ヶ月とかのあの子らの方がドリブルがよっぽど上手だな、と感じてしまったんですね。

その時に、自分の手はバスケに全く向いていないんだなと思いました。キャッチの時もドリブルの時も、手がボールをはじいてしまう感覚があって、それがもうなんというかどうしようもないんですよね。ボールに慣れていないとかそういうレベルじゃなく、もっと根本的に手が人と違う。こんなにやっても初心者の方が上手なのだから、自分はどんなに頑張ってもうまくなれないんだ、と自分自身に絶望しました。うまくなくてもいいから体力つけたりディフェンスとか頑張ればいいじゃん、って思う方もいるかもしれませんが、当時の私はそうは思えませんでした。基礎が圧倒的に人よりできないということがスポーツにおいて相当つらいことは、スポーツをやっていた方ならわかると思います。

そこから高校3年生で部活をやめるまでの1年ちょっとは地獄のようでした。努力は認められて副部長にはなったのですが、普通の人が簡単にできることが全然できずに怒られてばっかりで、いつも劣等感で暗い顔をしていました。自分自身に絶望しているので泣くことすら少なく、本当に感情が死んでしまったかのような日々でした。今でもほとんど記憶はありません。

でも、負けず嫌いが邪魔をして部活を辞めることはできなかったんですね。それくらいなら死にたかった。自殺は親が悲しむので、自転車で駅まで行くときに「運よく酔っ払い運転の車が轢いてくれないかな」とか駅で電車待ってるときに「誰か電車が来るタイミングで突き飛ばしてホームに落としてくれないかな」とか日々思っていました(笑)。

この時に「自分は根本的に人より劣っているんだな」ということが深く刻み込まれてしまったんですね。それで、部活を引退した後にそれがどんどんひどくなっていくんです。その後のことは、また次に書こうと思います。

とりあえず、ここまでを振り返った時に私が思うのは「高校3年間がもったいなかった」ということです。部活を辞められなかったのは、やりきるって自分で決めたのもありますが、それ以上にコーチや仲間の目を気にしてしまったということがあると思います。辞めるのは逃げだ、かっこ悪い、という価値観を超えられませんでした。もし途中で辞めて、もっと自分が向いていることを続けていたら今全然違う道を歩んでいたかもしれないと思うと残念です。少なくとも、高校生活はもっと幸せに送れていたはずで、非常にもったいなかったなと今思います。

それに、その後劣等感に数年間苦しんだ期間ももったいなかった。そのせいでできなかったことがたくさんありました。なので、もし今部活で苦しい人や自分に向いていない仕事でつらいと思う人がいたら、声を大にして言いたいです。逃げろ、と。継続は力なり、なんて本当に向いてないことには通用しない。頑張りが足りないんじゃない、得意な人が頑張るのと苦手な人が頑張るのではその苦しみには天と地ほどの差があります。だから、自分を嫌いになる前に、劣等感が身に染みついてしまう前に、逃げてください。かっこ悪いことでもなんでもない、自分がもっと生かせる場所を見つけてください。日本社会は、努力がすごく大切にされる社会ですし、諦めることや辞めることは「逃げ」だとされます。でも逃げていいんです、そんな誰が決めたのか分からない価値観よりも自分自身の方がよっぽど大切です。人の目が冷たく感じるかもしれないけれど、そんなの時が経てばすぐに薄れます。どうか、自分自身を一番に大切にしてほしい、私を反面教師にしてほしい、そう願っています。

次回は続きを書こうと思います。

 

夕(ゆう)

MAIL: r921k4u@gmail.com

堂々と生きることは義務である

堂々と生きることは義務である。

2月のモットーです。

私は一回、自分自身についての信頼をすっかり失うという経験をしたので、状況が変わっても「自分が悪いのだ」と思う癖がついてしまっているんですね。ある程度自己肯定感を取り戻した今でも一度身に着いた考え方の癖はなかなか抜けず、少しの失敗で「やっぱり自分はだめなんだ」と落ち込んでしまうこともよくあります。

なので今月は強制的に自分にこう言い聞かせることにしました。自信満々の態度を取り続けなさい、と。たとえば何か失敗したときに反省することはもちろん必要ですが、不釣り合いなくらい申し訳なさそうにしたり、迷惑をかけた相手のご機嫌伺いみたいなことをするのをやめる。自信なさそうにしゃべるのをやめて、はきはきと顔を上げてしゃべる。考え方についても、自分のどこが悪いという原因を考えたり相手はこれで自分が嫌いになっただろうかといった心配はしてはいけない。ただし次どうしたらいいのかという対策なら考えてもいい。そういうルールを作りました。

案外、自分に厳しいルールだなあというのが一週間ほど実践してみて分かったことです。これまでは、「自分の悪いところは分かっている、そのために落ち込んでいる」というのをひとつの言い訳として、自分に対して(時には他人に対しても)暗黙のうちに用いてきた側面があったな、と思いました。だから、できなくても仕方ないし許してほしいということですね。常に自信満々でいるためには、自分の美的感覚や価値観に合った行動を取らなければならない。自信なさそうにしていたら許されるような失敗をしても、「なんで失敗したのに堂々としてるんだよ」と反感を買うかもしれない。失敗したり欠点があったりしてもそれを補って余りあるような自分の良さをしっかり見せていかなければならない。そういう少し引き締まった心持ちで、過ごすようになりました。

まだ一週間挑戦しただけなので、おすすめできる方法かどうかは分かりません。ただ、人としゃべるときに卑屈になる程度が少し減ったように思います。自信がない人ほど自分の思っていることや自分自身のことを見せるのに抵抗があると思うのですが、それが緩和された気がします。そうすると人としゃべるのが前ほどしんどくなくなりました。

自分の気持ちや考え方の癖を変えるのは難しいですが、態度や行動なら変えることができる。全部変えられるわけではもちろんないですが、少なくともそういう部分はあります。態度を変えたらそれにつられて気持ちが変わるということはあるのだろうか、という実験でもあります。

これが自信を持つためにいい方法なのか分かりません。もしかしたら自己肯定感の低さは変わらず、ただ傲慢さが増すだけかもしれません。とりあえず一か月試してみて、ご報告したいと思います。なんとなくいい報告ができそうな気配はあるので、楽しみにしています。

 

夕(ゆう)

MAIL: r921k4u@gmail.com

自分は社会不適合者だ【いろいろな自己嫌悪】

お久しぶりです。しばらく間が空いてしまいました。毎日ブログを更新することができる人って本当にすごいですね。。。

今日は表題の通り、自分は社会不適合者だという自己嫌悪について。

これに関して言うべきことは、「坂爪圭吾さんという方のブログを見てください」に限ります。私がうだうだ語るよりもよっぽどいいと思います。責任放棄ではありません、効率性を考えた戦略です(笑) このブログです→http://ibaya.hatenablog.com/

彼の言葉で私が好きなのは、「社会不適合で悩んでいる?こんな社会に適合してどうするの?」です。超かっこいい。坂爪さんは家を持たず、定職を持たず生きることに挑戦しているのですが、それがまたいろいろな出来事にあふれていて面白い。そのいろいろから洞察することが、またよく見ているなあと感心させられます。

自分なんかだめなんだ、って思わないで、世の中は本当に仕事がないと、家がないと生きていけないのかと疑いまずは自分が実験台になってみる、そんな生き方にはいつも勇気をもらっています。

坂爪さんの紹介で終わってしまいましたね。でも私が落ち込んでいるときに新しい物の見方を提示してくれたブログなので、おすすめしておきます。

正社員になって「幸せな」家族を作るだけが人生だと思っていると、就活失敗したら人生終わりな訳ですよね。社会不適合な自分を嫌いにもなります。でも世の中ってもっとたくさんの生き方や幸せがあるということを身を以て証明する、そんな生き方ができたらかっこいいなと思います。すでにある道を選ぶんじゃなくて、新しく道を切り開いていくような。

ということで、進路に悩む方もいる時期でしょうが、世間が言う生き方や幸せばかりじゃないんだよね、と自分への戒めも兼ねて言っておきます。ぜひ、坂爪さんのブログを見てみてください。

自分にはコミュ力がない【いろいろな自己嫌悪】

 年末ですね。ゆったりできる方も、お忙しい方もいらっしゃると思いますがインフルエンザなど気をつけて過ごしてください。

今日は、「コミュ力がない」という悩みについて考えてみます。

私の周りで自己肯定感が低い人の8割くらいは、この悩みを抱えているような気がします。私も自己肯定感が低かった時は自分のだめなところのひとつに必ず挙げていました。それだけ今の世の中がコミュ力至上主義になっているのだなあと私は思っています。友達づきあい、恋愛、就活…コミュ力があれば人生すべてうまくいく、といったような語られ方をすることも多いですよね。

でも、コミュ力のあるなしで人生決まるなんて本当なのでしょうか?そもそもコミュ力なんて存在するんでしょうか?コミュ力がないって言っている人は本当にないのでしょうか?

自分の見えている範囲で話をすると、コミュ力がないと思っている人は、初対面で少し戸惑ってしまったり仲良くなるのに時間がかかったりするけれど、親しくなってみると本当に信頼できる人であることがほとんどです。悪意が全然ない優しい人が多いです。優しさのゆえに、相手とうまくいかないと自分に問題があるのだって思ってしまうということもあるかもしれません。

確かに会話が続かなかったり、同じ話ばかりしてしまったり、そういう傾向はあるかもしれません。でも、ただそれだけです。コミュニケーション能力がないわけじゃない。というかコミュニケーション能力というもの自体存在しないんじゃないでしょうか。

いわゆる「コミュ力がある」人でも長期的に人と良好な関係を保つのが難しい人もいっぱいいると思います。なぜ彼らがコミュ力があるように見えるかというと、自分はコミュ力があると信じているからです。そんだけだと思います。自分にはコミュ力がないと思うと人とかかわることが怖くなってますますコミュ力がなくなってしまいます。とりあえず、コミュ力なんて全然ちゃんとした概念じゃないもので自分を測るのをやめませんか。

多分今の世の中では、いかに短期間に自分を売り込めるかが重視されるから、初対面の良さとかすぐに仲良くなれるか、話ができるかが大事だと言われるんだと思います。就活でもそういうところで判断する企業も確かにあるでしょう。でも、そうじゃない企業だってたくさんあると思いますし、恋愛だって最初はコミュ力かもしれないけれどその後こそが一番大切ですよね。そういうことを考えても、コミュ力がないと悩むのは非常に不毛ですしそれで自己肯定感が下がってしまっては本当にもったいないと思うのです。

それよりも、自分のいい部分が表れるような人付き合いの仕方ってどんなのだろう?と考えてみる方が建設的だと思います。大人数だと無口になってしまうけれどふたりだとわりと話せるなら、そういう環境を積極的に作ったり大切にしていったり。話すのは苦手だけど手紙は得意なら節目節目にきちんと手紙を書いたり。

というわけで、「コミュ力がない」なんて悩むなーーー!!!というお話でした。そういえば、私は読んでいませんが平田オリザさんの『わかりあえないことから―コミュニケーション能力とは何か―』という新書もあるので興味があればぜひ。