読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

自分とのつきあい方―自己肯定感について考える―

自己嫌悪で辛かったり、自分に自信が持てなくて悩んでいる方へ。

苦手の原因を考えるなかれ【経験談その2】

こんにちは。最近暖かくなってきましたね、春を感じられて嬉しいです。

さて、前回は自分の体験から「劣等感が染み付く前に逃げろ」という話をしました。今回は、じゃあ劣等感が染み付いた結果どうなったのか、ということを書きたいと思います。

高校3年生の6月に部活を引退し、毎日練習で「自分は人よりできない、劣っている」と感じ考えてしまうような日々は終わりました。じゃあそこから自分に自信を持てたかというと、逆なんですね。自分はもっとバスケットボール以外の他の面でも根本的に人より劣っているのではないか、という思いがだんだん強くなってしまいました。

たとえば、自分の顔がどんどん嫌いになりました。もともと奥二重なのでぱっちりした目ではなかったり、歯の矯正をしたため顎関節症気味だったりするのですが、それらが「自分が遺伝子レベルで劣っている証拠」と感じられました。

それと、パッと瞬間的に物事を判断することが得意ではなかったり、何かに集中すると周りの音が全然聞こえなくなってしまったり、そういうところも自分が「認知的に普通じゃない」んだ、と認識していました。

そしてこれが後々一番厄介だったのですが、コミュニケーションにすっかり自信がなくなってしまいました。「認知的に劣っているから人とうまく会話できない」「面白いことを言えない、会話が続かない自分が嫌い」「気が利かない自分はだめだ」「他人に興味がないというのが根本的な問題だ」、そんな思いがずっと頭の大半を占めていた気がします。そして、どんな人としゃべっても劣等感が付いて回るんですね。相手が面白いことを言えば、表面では笑いながら内心「なんで自分はこんなに面白くないんだろう」と絶望し、気の利く対応をしてくれると「私にはこんなのは無理だ」と落ち込んでいました。それまで人との接し方に疑問を持ったことはなかったのですが、「自分はコミュニケーション能力がない」という思いがじわじわと広がっていきました。でも逆に、自分よりコミュ力がないなと思う人は見下して、安心して付き合っていました。劣等感を常に感じているって本当にしんどいので、人を見下さずにはいられなかったんだと思います。

集中力はあるのでほとんど勉強では苦労しなかったのですが、そんなことは全く自己肯定感を高めませんでした。逆に「自分は勉強しかできないんだ」といった思考に陥りがちでしたね。

今考えると、自分のだめなところ、嫌いなところをあほみたいに一般化し広げていたな、と思います。たとえば「自分はパッと物事が判断できる方ではない」→「なぜだろう?」→「認知的に劣っているからだ」→「だから即時的なコミュニケーションや気の利かせ方をすることもできないだろう」という具合ですね。苦手なことを克服しようとして苦手な原因についてつきつめて考えると、育った環境や生まれ持った遺伝子によって何かしら自分が歪んでいる、劣っているといった結論になりがちです。でも、育った環境や認知的なものを変えることはできません。だから苦手な原因について考えても何の解決にもならず、逆に自分の駄目なところをさらに「発見」することにつながります。

勉強では、苦手教科を克服することが志望校合格や成績アップのためには一番効率のいい方法だと思います。でも、人生や自分自身はそうじゃない。苦手なことを人並みにするために原因を探るよりも得意なことを探した方がよっぽど効率的で、幸せに生きられる方法です。自分の短所や欠点を認識することは大切ですが、だからといって卑屈になったり絶望したりする必要は全くない。認識しながらも、長所を発見し、それをうまく生かすことが何より大事なんだと思います。それが自分自身を受け入れるということですよね。

次は、大学に入ってからの話をしたいと思います。