自分とのつきあい方―自己肯定感について考える―

自己嫌悪で辛かったり、自分に自信が持てなくて悩んでいる方へ。

「努力してもイチローになれるとは限らないけれど、努力すれば少なくとも普通程度にはできるようになる」って考えが嫌いだ

今日は、日本の努力観について。

私は、多くの人が努力について暗黙のうちに思っていることはタイトルのようなことだと思う。つまり、「努力してもものすごいレベルに到達できるとは限らない。でも、少なくとも普通程度にうまくなったり部活のレギュラーになったりするくらいはできる。」ということ。頑張ればある程度はなんとかなるでしょ、みたいな考え方は、本当に苦手なことに対して頑張ったことのない人のものだと思う。そして日本社会の、特に高学歴の人々にはそういう人がえてして多くて、彼らが社会の上に立っているというのは非常に怖い。

彼らは、どんなに頑張っても本当に苦手なこと・できないことがあるということをあまり想定できない。だから、生活保護は甘えだ、みたいなことを簡単に言ってしまうんだと思う。本当にお金を得ることが苦手な人がいるという想像ができないから。そういう人は何らかの「障害」「病気」を与えられて保護されるべき存在とされる。そうでなければ、努力が足りない、自己責任だと考えられる。これはみんながある程度の生活をできた「一億総中流」の時代の負の遺産なのかもしれない。

時々、電車で目が死んでいる部活生を見る。私も昔そうだったから、努力しても結果が出なくてしんどいんだな、とわりとすぐに分かる。彼らは、「自分には才能がないから」と言って部活をやめることができない。だって「努力すれば普通程度にはなれる」とみんな思っているから。どんなに頑張ってもうまくならないと言っても「努力不足でしょ」と言われるだけである。

いつも言っていることだけど、どんなに努力しても全く伸びないことがある。そしてそれに費やす時間と消耗する精神がとてももったいないと思う。でも諦めることを許さない社会だから、少数かもしれないけれどしんどい思いをしている人がいると感じる。

私はそんな世の中が本当に嫌だ。でもこれを誰に言えばいいのか分からないので、とりあえずここに書いている。書くことで、少しでも何か変わるかもしれないと思っているけれど、半分は絶望している。

頑張っても何ともならないこともある、ともう少し堂々と言うことのできる社会になるように、焼石に水かもしれないけれど、これからも書いていきたい。

今日も空は広い。

仕事=人の役に立つこと なんて嘘だと思う

普段書いていることとは少し離れるけれど、今日は仕事について。

私は、仕事をしている人は社会貢献をしているみたいな考えは嘘だと思う。

だって、本当に必要なサービスは仕事にならないから。

たとえば、普通の塾で働くことは仕事になる。でも、本当にお金がない生活保護家庭の子どもは塾に行くことができないから、今は行政がボランティアを募集してやっている状況で。そういう子どもの力になりたいと思ってもボランティアでしかできない。生まれた家のお金の有無によって将来が大きく制限されてしまうという現実をなんとかしようとすることは、お金にならないから、仕事にならない。

世の中ってそういうものだと思う。お金がある人のためのサービスは仕事になるけれど、そうでない人のためのサービスは仕事にならない。要するに、みんなが仕事って言っているものは結局お金を稼ぐことなんじゃないかな。

貧困とかそういうのは行政がやってくれるでしょ、行政で働けばいいじゃんって思うかもしれないけれど、そんなに簡単ではなくて。行政もお金がない時代、生活保護なんてどんどん減らして、生活保護を切り捨てた人が「自立させた」として昇進するような社会に今はなっている。公園のベンチにホームレスの人が寝られないようにするために手すりをつけたりするのもそうだよね、私には行政がやるべきことと逆のことをしている社会に見える。

時々、生活保護を受けてボランティアをする方が、会社で働くよりもよっぽど人の役に立てるんじゃないかって思うこともある。物が余っている時代に物を作ったり、ものすごい仲介料を取る人材会社なんかで働くよりも、貧困のために死ぬ人を減らすことの方が大切だよなあと思う。

だから、働いていないことが悪いっていうのは違う。自立したい人はしたらいいし、働きたい人は働いたらいいと思うけれど、それを人に強制する理由はない。仕事をしていない人は社会の役に立っていない、という考えが前提にあるから、ニートや引きこもりが生きづらい社会なんだと思う。

こんなことを書くとしんどい思いをして働いている方に怒られるかもな、って気もしないでもない。でも、本当に社会貢献がしたくて働いている人って私はそんなに見たことがないし、なんやかんや自分のために働くことの方が多いんじゃないかな。

私は、貧困にある人々のために仕事ができたらと思って就職活動をしたのだけど、やっぱりそれは厳しそうだった。ものすごくスキルがあったりエネルギーがある人だったらそれをかなえられるのかもしれないけれど、私みたいな凡人には無理だと思った。

だから少しでも私にその可能性があるという理由で大学に残るという選択肢を選んだのだけど、それは周りから見て異常な判断みたい。でも逆に、私は彼らがなぜそういう風に考えないのかを不思議に思う。自立したい、お金を稼ぎたいというのなら分かるのだけど、お金よりももっと追求したいことってないのかなあ。普通に就活していない人は変な人みたいな雰囲気って、非常に狭いものの見方でしかない。

今日人と話してあまりにもやもやしてしまったので、いつもと違う文体でつい書いてしまった。今日も空は広い。

この1年で、生きるのがだいぶ楽になった理由を考えてみた。

 今回は、4月からの1年間を振り返って感じたことを書こうと思います。この1年で、だいぶ生きるのが楽になりました。このブログでは偉そうにアドバイスみたいなものを書いていますが、自分はだめだなあと感じる瞬間もたくさんあります。でも、そういった時間が随分減って、自分らしく生きていいんだなあと思うことが増えました。

 何がきっかけで楽になったか、と言われると少し難しいです。これがそう、と明確に言えるものがあるわけではありません。でも、いくつかきっとそうじゃないかなと思うことはあるのでそれを書いていきますね。

 ひとつめは、海外に行ったこと。夏に少しだけイギリスに滞在していたのですが、その時に、国が違えば「できる人」の基準も、人生観も違うということを感じました。今まで自分はかなり狭い価値観の中で自分を判断してだめだと思っていたんだなあという風に思うと、なんだか自己肯定感が低くて悩んでいたことが阿呆らしくなりました。

 もうひとつは、自分が尊敬する人に認めてもらうという経験をしたことでしょうか。何か無理をしている自分ではなくわりと素のままの自分をいいと思ってくれる人がいる、しかもそれが自分の尊敬できる人だというのはかなり嬉しいことでした。相変わらずそんなに友達が多い方ではないですが、自分がいいなあと思う人、気が合う人に好かれれば他の人にどう思われてもいいやと開き直ることができました。

 あとは、ある程度無理やり今のところの目標を定めたことですね。何か目標があって、それに向かってやることが目の前にあるという状況は精神衛生上いいものかもしれません。私は人に向かって頑張れと言うのは好きではないですが、自分が頑張れるような環境を作るというのは案外重要かもしれないと思いました。客観的に見たら単なる自己満足であったとしても、少なくとも自分の気持ちにとってプラスになるならそれでいいんじゃないかなあと。

 

 そんなこんなで、ここ1年ほどでだいぶ自分らしくというか、無理せずいられるようになったなあと思います。今までは、たとえば楽しい人や気が利く人など、自分から見てすごいなあという人は頑張ってそうしているか、何か努力してその能力を身につけたんだと思っていました。だから自分も頑張らなきゃ、と。それは私にとって当然の前提で、疑うこともしませんでした。でも、素直に自分の感想を言ったときとか、考えていることを話したときとか、そういうときの方が相手の反応がいいことが多いんですね。それに気が付いてから、今まで「こう言ったら意地悪な人・変な人だと思われるだろうな」と気にして言えなかったことを、だいぶ言うようになりました。もちろん分かってもらえないこともしょっちゅうあるのだけれど、案外分かってもらえることも多いです。今まで違う世界の人だと思っていた高校の同級生が分かってくれたりとかいうこともありました。

 多分、私から見てすごいなあと思える人も、それが自然の姿で特に何か頑張っているというわけじゃないんじゃないかな。そういう人に追いつこうとして無理をするよりも、素のままの自分の良さを分かってくれる人を見つける方が大切だなあと思います。

 多分外から見たらいわゆる「コミュ障」で鈍くさいのは変わっていません。素早いレスポンスは苦手だから、今日も何か言われて「あっ、」って何回言ったことか(笑)。あと服装や髪をきちんとするような女子力はどんどん下がっていってます(笑)。でもまあ、そんな私を面白いと思ってくれる、いいなと思ってくれる人がいるので、そういう人と楽しく生きていこうと今は思っています。

 「個性」を見つけなきゃと焦らされる世の中ではありますが、別に何かキャラを立てたりすごく得意なものを見つけたりしなきゃいけないわけじゃない。そういう風に思うことが、かえって個性を失わせるような気がします。自分を変えようとするよりも、気が合う人を見つけて過ごすことの方が大切なんじゃなかろうか。そんなことを思った1年でした。

 ではでは今日はこのあたりで。今日も空は広い。

 

 

回り道をしたっていいじゃない【ヘルマン・ヘッセ『シッダールタ』書評】

長らくご無沙汰していました。放置していたので全然見られていないだろうなあと思っていたのですが、久々に開いたらたくさんの方が見てくださっていて、びっくりしました。うれしかったです。いつもありがとうございます。これからはもう少し高い頻度で更新していけたらと思っています。

 

今日は、ヘッセの『シッダールタ』という小説を紹介します。

ヘッセは『車輪の下』が有名ですが、それ以外にも素晴らしい小説をたくさん書いています。その中でも『シッダールタ』は、自分の生き方を考えたときに読んで心の支えになってくれた一番好きな本です。

「シッダールタ」は仏教を始めた人、仏陀の本名ですが、この話は特に仏陀や仏教の歴史的な事実とは関係ありません。悟りを求める人の一生を描いた物語です。

 

ここからはネタバレも入るので、ご注意くださいね。

この話の裏に流れている哲学というのか、人生に対する態度が私はとても好きです。シッダールタは悟りを求めて紆余曲折するのですが、壮年を過ぎて自分のこれまでの堕落した生き方を非常に後悔し死んでしまおうとする場面があります。しかし、この無駄に思われる回り道なしには自分は世俗の生活を知ることはできなかったし、それは自分の道ではないということに気づくこともできなかったと思い直して生きていきます。「だが、それはそれで正しかった。」と自分の回り道を肯定する態度に深く打たれて、私も自分のこれまでを考えました。

自分になんて価値がないと思って生きていた5年間、もしもっと自己肯定感が高ければもっとたくさんのことができて、もっと幸せな人生を歩んでいたのではないかと思っていました。留学も本当はしたかったけれど自信がなくて踏み出せなかったし、就職活動も違ったものになっていたはずだと考えると、なんて無駄というかむしろマイナスの5年間を過ごしたんだろうと感じていました。

でも、『シッダールタ』を読んでからは少し考え方が変わりました。もしこの5年間がなくて、大きな挫折を経験しなかったら自分はどれだけ人の気持ちや社会のあり方に鈍感な人間だったんだろう。逆に、大人になって考える時間がないときに自己嫌悪に陥っていたらもっと悲惨な状況だったんじゃなかろうか。そういう風に捉えるようになりました。

回り道をしたけれどもそれはそれでよかったんだ、と今は心から思っています。しんどい思いをしたからこそ得るものもある。

 

筆の力が足りなくてヘッセの良さを伝えきれていないのがもどかしいですが、本当に彼は孤独や生き方について考え抜いた作家だということが、小説を読んでいると伝わります。

よければぜひ読んでみてください。自分は孤独だ、という気持ちを持つ方には『荒野のおおかみ』もおすすめです。

 

 

 

 

 

 

あなたが認められたい相手は誰ですか?

こんにちは。今日は、他人に認められることについて。

最近知り合った、私がすごく尊敬している先輩がいます。その人は、話すのが上手でよく気が付き、一緒にいて楽しいという素敵な方です。結構よく私と遊んでくれるのですが、私なんかでいいんだろうか、一緒にいてつまらなくないのかな…といつも思っていました。

でも、何かの機会に「私は先輩をすごく尊敬してますよ!」と本心を言うと、「ありがとう!私もゆう(ブログ執筆者のこと)のこういうところ本当に尊敬しているんだよ!」と返ってきました。それが取り繕いではなく本心なんだということが態度から見えて、すごくすごくうれしかったです。

で、その時にふっと、私は他の人をエンターテイメント的に楽しませることや細かく気配りすることは得意ではないけれど、ほんわかと落ち着いて安心できる空間を作ることができるんだな、ということを思いました。エンターテイメントが得意な人も時にはそういう時間を求めることがあって、私ももしかしたら少しは役に立っているのかもしれないなあと。

世の中にはいろいろな人がいて、話すのがうまい人もいれば深く考えるのが得意な人もいるし、ユーモアで和ませる人、仕事をしっかりやる人、積極的に遊ぶ人、静かに話を聞いてくれる人、それぞれの良さがあります。スーザン・ケインの『内向型人間の時代 社会を変える静かな人の力 』にあるように、私たちは話すのがうまいことや外向的なことに価値を置きすぎているのかもしれません。だから、話を聞くのがうまいとか、じっくり考えるとか、一緒にいて落ち着くとか、そういう良さを見失いがちです。でも間違いなくそれは素敵な長所ですし、外向的な人もその良さは認めているのだと思います。

正直に自分のことを話すと、今までも認めてくれた人はいたのですがわりと自分と同じようなタイプの人が多く、私は内心もっと楽しく面白い人にならなければいけないんじゃないかと思っていたので認められても素直に受け取ることができなかったんですね。自分もそうだから褒めてくれるんでしょ、という気持ちもありましたし。でもまったく違うタイプの人に認めてもらったことで、私は無理して楽しくしたり面白くしたりしなくていいんだ、このほんわかなままでいいんだなあと思いました。そして、自分がすごいと思っている人に認められることのうれしさを知りました。

多分、自分がすごいなあと思う人に率直に思いを伝えるのって気が引けますよね。気の知れた友人にですら恥ずかしいものです。でも、何かイベントやきっかけがあったら、ぜひ自分から率直にすごいと思っていることを伝えてみることって大切だし、自分にも承認が返ってくる可能性が高くなるんじゃないかと思います。あと、やっぱり人って他の人に認められたい生き物なんだなということを改めて確認もしました(笑)

あれから、少しだけ物怖じせずに人と話せるようになったような気がします。

今日も空は広い。

 

夕(ゆう)

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「自己肯定感」が低く「プライド」が高い人

お久しぶりです。今日は、自己肯定感とプライドについて。

この2つって何が違うのか、ということをまず最初に書きます。心理学的な定義などは知りませんが、私は「自己肯定感」は「自分は認められている」という気持ちのこと、プライドは「自分を認めてもらいたい」という気持ちのことだと思います。

プライド自体は別に悪いものではなく、誰もが自然と持っているものですよね。認めてほしい気持ちがあるから人は様々な社会的行動を取るわけですし。でも、それが自己肯定感と食い違ってしまうと、つまり、自己肯定感は低いのにプライドだけが高いという状況になってしまうと、本人も周りもなかなか大変です。

周りを見ていると、「自己肯定感」は低いのに「プライド」は高く、そのせいで人や自分とうまく付き合えなかったり、苦しい思いをしている方を時々見かけます。すごく自信がなさそうな一方で自慢をよくする人や、「自分はだめだ」と言いながら他の人を批判する人って、なんとなく鼻持ちならない感じがしてイラッとしてしまいます。でも私自身もそういう傾向があったから思うのですが、そういう人は、「認めてほしい」気持ちに「認められている」気持ちが追いついていないのではないでしょうか。

自己肯定の度合いに見合わないくらいプライドが高いと、自分でそのプライドを満たすことができない分、無意識的にどうにか他人に自分を認めさせようとしてしまうんだと思います。

特に小さいころから勉強ができて学歴が高くなると、「すごい」と言われて育つので、どうしてもプライドが高くなりがちです。でも、勉強だけできればよかった高校生までと違った環境に身を置いたときに、どことなく自分は周りの人よりもうまくやれていない感じがして、自己肯定感が低くなることがあります。そうすると、自分はすごいという気持ちと駄目なんだという気持ちの食い違いから、鼻につくような態度やちぐはぐな行動を取ってしまう傾向があるように思います。

この食い違いは本人にとっても周りにとっても不幸を生みます。周りの人にとっては自慢が少し嫌味に感じられるし、本人も一瞬それで満たされるような気がするけれど本当に「認められている」という気持ちを得たわけではないので、苦しみは続きます。さらにそういった態度が原因で人が離れていくとそれはさらに「認められていない」という気持ちの増加、つまり自己肯定感の低下につながってしまうわけです。

じゃあどうすればいいのだろうか、というのは難しい問題なのですが、「プライドを下げる」ことよりは「自己肯定感を高める」方が簡単で良い方向に向かうということは言えると思います。

プライドの急激な低下が起これば最悪死に至りますし、多分心がどんな手段を使ってでも防ぎたいことだと思います。だから、自分は自分のままで認められているから自慢する必要はないんだ、と心の底から思えることをまずは目指した方がいいでしょう。

とは言っても理屈でそれが分かっても、感情的・心理的なものというのは簡単に変えることがなかなかできないものです。だから、もしそういう人が周りにいたら私ができることは、理屈ではなく態度で、あなたを受け入れているよ、認めているよと示すことだと思っています。具体的には、話を聞くこと、共感すること、自然な感じで一緒にいること。そのあたりが大切かなあと思います。

ただ、自分とその人が遠ざかる日というのはいつか来るので、その時に相手が落ち込まないように配慮するというのも大切なのだなあと学びました。認めてくれるのはあなただけだ、という心理的な依存を引き起こすのはあまり良くないんですよね。この辺が一般人には難しいところです。

それと、もし自分がそうだと思うなら、自分ひとりでどうにかするのは難しい面があります。自分のことは自分で解決しなければ、という気持ちも分かりますが、最終的な解決をするのは自分でも、そこまでの道のりで他人に頼ることは必要だと思います。自己肯定感は「他人や社会に認められている」感覚に基づくものなので、それをを誰の手も借りずに高めることは当たり前だけど難しいです。何人かの人を頼ってみることをお勧めします。

それでは今日はこの辺で。今日も空は広い。

 

夕(ゆう)

MAIL: r921k4u@gmail.com

 

 

 

他人の自己肯定感を高めることは可能だろうか?

こんばんは。今日は、他人の自己肯定感を高めることができるのか、ということについて書いてみたいと思います。自己否定で苦しんでいる人が周りにも何人かいますが、どうしたらその苦しみから助けだしてあげることができるのでしょうか。

結論から言うと、無理です。

自分で自分を否定している状況では、他の人がたとえどんなに「あなたは素晴らしい」と言ってくれても、なかなか信じることができません。それは私のことを分かっていないだけだ、という風に考えてしまいがちな気がします。自己肯定感が低いと自分を隠して他人と関わる傾向があるので、なおさら理解してくれているはずがない、と思ってしまいます。

でも、じゃあ何もできないのかというとそうではない。最終的に自分を認めるのは本人ですが、その前段階できっと助けになることがあるはずだと思ってこのブログも書いています。

私が大切だと思うのは、その人の存在を全肯定すること。良いところだけをほめるんじゃなくて、悪いところももちろんあるけれどそこも含めたうえであなたは素敵で価値がある存在なんだというメッセージを伝えることです。

そもそも自分が生きる価値がある人間か、ということは論理じゃなくて感覚で判断するものだと思います。いくら自分の長所を頭で理解しても、実際に人に受け入れられた感覚がなければ自己肯定感を高めることは難しい。だから先に論理じゃなくて感覚を満たすこと、それができれば少し自分について穏やかに、優しい気持ちを持つことができるようになるかもしれない。

それに、全存在が肯定されているという感覚があれば死への躊躇を持つことができる(かも)。これは結構大きなことだと思います。

多分劇的に人を変化させようとするのは難しいし、無理やり試みるべきことじゃないんだと思います。でも、私はあなたの存在に価値があると思う、悪いところも含めて素敵だと思う、というメッセージを継続的に伝えることで、本人も気づかないかもしれないけれど何かしらの力になることができるんじゃないでしょうか。

私は部活や自己嫌悪で辛かったとき、両親には「自分が嫌いだ」なんてとてもじゃないけれど話せませんでした。でもどんなときも自分の存在を認めて肯定してくれた両親がいたから、どんなに絶望しても自殺しようとはならなかったんだと思います。

だから、周りの人が苦しんでいたら、きっといつか自分に自信を持ってくれる日が来ると信じて、寄り添ってあげてください。目に見えて変化がなくても、本人が気づいていなくても、それは支えとなっていると思います。

今日はなんだかほわっとした話になってしまいましたが、いつかもう少しきちんとこれについて考えて書きたいと思います。

それではこの辺で。今日も空は広い。

 

夕(ゆう)

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