自分とのつきあい方―自己肯定感について考える―

自己嫌悪で辛かったり、自分に自信が持てなくて悩んでいる方へ。

他人の自己肯定感を高めることは可能だろうか?

こんばんは。今日は、他人の自己肯定感を高めることができるのか、ということについて書いてみたいと思います。自己否定で苦しんでいる人が周りにも何人かいますが、どうしたらその苦しみから助けだしてあげることができるのでしょうか。

結論から言うと、無理です。

自分で自分を否定している状況では、他の人がたとえどんなに「あなたは素晴らしい」と言ってくれても、なかなか信じることができません。それは私のことを分かっていないだけだ、という風に考えてしまいがちな気がします。自己肯定感が低いと自分を隠して他人と関わる傾向があるので、なおさら理解してくれているはずがない、と思ってしまいます。

でも、じゃあ何もできないのかというとそうではない。最終的に自分を認めるのは本人ですが、その前段階できっと助けになることがあるはずだと思ってこのブログも書いています。

私が大切だと思うのは、その人の存在を全肯定すること。良いところだけをほめるんじゃなくて、悪いところももちろんあるけれどそこも含めたうえであなたは素敵で価値がある存在なんだというメッセージを伝えることです。

そもそも自分が生きる価値がある人間か、ということは論理じゃなくて感覚で判断するものだと思います。いくら自分の長所を頭で理解しても、実際に人に受け入れられた感覚がなければ自己肯定感を高めることは難しい。だから先に論理じゃなくて感覚を満たすこと、それができれば少し自分について穏やかに、優しい気持ちを持つことができるようになるかもしれない。

それに、全存在が肯定されているという感覚があれば死への躊躇を持つことができる(かも)。これは結構大きなことだと思います。

多分劇的に人を変化させようとするのは難しいし、無理やり試みるべきことじゃないんだと思います。でも、私はあなたの存在に価値があると思う、悪いところも含めて素敵だと思う、というメッセージを継続的に伝えることで、本人も気づかないかもしれないけれど何かしらの力になることができるんじゃないでしょうか。

私は部活や自己嫌悪で辛かったとき、両親には「自分が嫌いだ」なんてとてもじゃないけれど話せませんでした。でもどんなときも自分の存在を認めて肯定してくれた両親がいたから、どんなに絶望しても自殺しようとはならなかったんだと思います。

だから、周りの人が苦しんでいたら、きっといつか自分に自信を持ってくれる日が来ると信じて、寄り添ってあげてください。目に見えて変化がなくても、本人が気づいていなくても、それは支えとなっていると思います。

今日はなんだかほわっとした話になってしまいましたが、いつかもう少しきちんとこれについて考えて書きたいと思います。

それではこの辺で。今日も空は広い。

 

夕(ゆう)

MAIL: r921k4u@gmail.com

自分自身をむしばむような部活なんてやめてしまえ。

こんばんは。

このブログに、部活で検索してきてくれる方が結構いるみたいなので、今日は部活について書いてみようと思います。

中学校・高校だと、部活に入らなきゃいけない風潮ってありませんか?強制のところもまだ案外残っているみたいですし、そうでなくても一つの部活に打ち込むのが素晴らしい、みたいな暗黙の価値観が先生や親から刷り込まれているような気がします。

そして、いろいろな部活をころころ変える人はあまり良い印象を持たれなかったり、下手でも諦めずに頑張ることが素晴らしい、という雰囲気もあって、下手だから辞めるということがなかなか難しい状況があると思います。部活を辞めてしまった奴は根性がない負け組、みたいな価値観って結構強いですよね。私もそれを内面化してしまっていたために辞めることができずかなり苦しい思いをしました。

別に、ひとつの部活に打ち込むことはそれはそれで素晴らしいことだと思います。きっと得るものもたくさんあるでしょう。

でも、もう頑張り尽くしたけれど結果が出ないから辞めたい、しんどいと心の底から思っている時に辞められないというのは、ものすごく非効率的だと思います。その中で努力すれば確かに根性は身につくのかもしれないけれど、それと失う自己肯定感、時間、心の余裕、他のことにチャレンジする機会を比べると圧倒的に後者の方が大きいと実際に経験した私は思います。(「私の経験」のところに書いてあります)

部活がうまくいかなくて自分に絶望していたとき、私の世界は完全にモノトーンでした。生きているというリアルな実感や楽しい・幸せだという感情がなく、毎日車に轢かれたいと思いながら日々を過ごしていました。だから高校2年生から3年生の1年半くらいはほとんど覚えていません。ただ灰色の日々がぼんやり思い浮かぶという感じです。

だから、部活をもう少し辞めやすい世の中になったらみんなもっと生きやすくなるんじゃないかと思う訳です。頑張ればなんとかなるなんていうのは本当に頑張ったことのない人が言うことで、頑張ってもどうにもこうにも下手なままの人というのは一定程度います。不幸にも自分がもしそうだったのなら、それは自分には向いていなかったんだなと諦めて、他の自分が楽しめること、得意なことを探した方がいいに決まってます。その方が今の人生も楽しいし、これからにもつながるはず。

それに、部活に入っていない人の中にも素敵だなあと思える人はたくさんいます。それぞれの趣味を持っていたり、なんとなく自由な雰囲気があったりして、私はそういう人と話すのがすごく好きでしたし今でも好きです。何かを頑張らなければきちんとした人間になれないなんてただの幻想ですし、もっとゆるゆると生きて駄目な理由なんて何一つありません(この辺はpha著『ニートの歩き方』が説得力ある説明をしてくれています)。みんながなんとなくそう考えているっていうだけ。帰宅部でずっと本を読んでいたり、ギターの練習をしたりするというのも一つの素晴らしい学生時代の過ごし方だと思います。

「部活は絶対やった方がいい」「一つのことを諦めずに最後までやり遂げなければならない」なんて誰が決めた訳でもないことなのに、それに縛られて貴重な中学高校時代を無駄にしてしまうのはもったいなさすぎる。もっと自分がしたいこと、楽しい・かっこいいと思うことをやったらいいんじゃないかと大人になった今思います。もし昔の自分に会うことができたらそうアドバイスします。

だから、自分自身をむしばむような部活なんて辞めてしまえ。世界は広い。

 

夕(ゆう)

MAIL: r921k4u@gmail.com

自分を変える必要なんてない

こんにちは。梅雨で雨が多くて少し憂鬱気味のこのごろです。

最近、「自分を変えたい」という言葉を聞いて少し複雑な気持ちになりました。自分を変えたらきっとフリーターやニートから抜け出せる、彼氏・彼女ができる、仕事ができるようになるetc.いろんな「自分を変えたい」があると思いますが、なぜ自分の「習慣」や「行動」「考え方」を変えるだけではだめなんでしょうか。自分自身を変えたい、という思いの根本には自己否定があるように思えます。

かくいう私も「自分を変えたい」とずっと思ってきましたし、「変えられる」と思ってきました。小学校5年生の頃、先生や友達とうまくいかず「このままではだめだ」と性格を変えようと試みたこともあります。すごく笑顔を作るようになったし、面白くなくても愛想笑いするようになりました。とりあえず相手に合わせるということをしたんですね。結果友達や先生とはうまくいった面もありますが、自分はなんてつまらない奴なんだ、という気持ちが出てくるようになりました。相手に合わせて自分を殺すんだからそりゃつまらなくなりますよね。

もちろん人に合わせて嫌われない技術を身に着けたことは役に立った面もありますが、でも高校までを振り返ってみると表面的な友達付き合いが多すぎて嫌になります。自分を抑えて人と付き合う癖がつくと人と会う時にストレスを感じるようになりますし、何事もバランスだなと今は感じています。

話を戻すと、「自分を変えたい」という言葉の裏には、自分では意識的にコントロールできない自分の嫌なところがあるんだろうと思います。人と話したいのになぜかうまく話せない、そうしたいのに周りを見て動くことができない、などなど。でも、無意識をコントロールしようと思うと、自分の行動ひとつひとつを確認してしまって、超しんどいです。さらに、いちいちこれでいいのか自信がなくなってさっと動けなくなって、余計気が遣えなくなったりします。そんなこと考えない方が絶対にうまくいきます。

無意識をコントロールすることは人には無理だと諦めてしまいましょう。知らない間に変わっていることはあるかもしれませんが、自分で変えようと思って変えられるものではない。それよりも、今したいこと、できることをひとつずつやっていく方がきっと素敵な自分に近づけるんだと思います。

自分を変えるというのは根本的な解決に見えるかもしれませんが、これこれをしたから自分を変えることができて、全てがうまくいくようになるなんていうのは幻想です(笑)。大学生活の4年間自分を変えようとしていた私の経験から。

自己啓発本にはその手の話がたくさんありますが、ああいうのは本物の自己否定を感じたことがない人が書いていることが多いですよね。自己啓発本なんて、ちょっとやる気が出るくらいの効能しかないので、自分の変え方を学ぼうとするなんて馬鹿げていると思います。

何回も言いますが、そのままのあなたでいい。現代社会の価値観から見れば「できない」人かもしれないけれど、それは多様な「良さ」を認められない社会の価値観がおかしいんです。社会の規範に合わせて自分を歪めないでください。

今生きづらさを感じている人が、違うものの見方・価値観の中で生きられるようにできることをしていくので、少し待っていてくださいね。もしかしたら、あなたがそれを作り上げる最初の人かもしれません。

今日も空は広い。

 

夕(ゆう)

MAIL: r921k4u@gmail.com

 

「あるべき」自分を捨てること

おはようございます。今日は「あるべき」自分を捨てることについて。

最近自分がいかに「あるべき」自分に縛られているかに気が付きました。

私は日々自分自身で勝手に「こうでなきゃいけない」自分像を作り上げて、それにしたがって行動しているんだなあということです。

人と明るく接しなければならない、しっかり勉強しなければならない、気が利く人間でなければならない、優しくなければならない、社交的でなければならない、仕事をしっかりしなければならない、えとせとら、えとせとら。

今書き出してみて、自分で自分に課していることの多さに引きました(笑)。そりゃこんだけたくさん「あるべき姿」があればそれに当てはまらない自分を見つけるのなんてすごく簡単で、自分はなんてだめなやつなんだ、と落ち込むのも当然のような気がします。

もちろん生きているからにはある種の自分像というのは常に思い描いているわけなのですが、それにしても縛りが多すぎるとしんどいです。それに、これってある種逆効果なこともあるんじゃないでしょうか。たとえばちょっと判断に迷う状況があった時に、どうすれば相手が嫌な思いをしないか、喜んでもらえるかという基準ではなく、こういう行動を取る自分は相手と自分自身にどう映るか、で行動を決定してしまう。その結果ちぐはぐなことになったりすごい我慢をしてしまったり相手を怒らせてしまったりするんじゃないかな、と実体験から思います。

またこれは「こうでなければ認めてもらえない」という気持ちでもあって、自分自身のままで受け入れてもらえる感覚が欠如しているんだとも思います。だから人といる時に非常に無理をしてしまって人といるのがしんどいのかな、と。でもまず自分自身をさらけ出さないとその感覚は決して身につかないんですよね。

「こういう自分でなければならない」「こう生きなければならない」といつのまにか思い込んでいたら、そりゃ何をしていても肩の荷が降りないはず。それを捨てるのはなかなか容易ではないような気がしますが、まずは縛られている自分自身を再確認するところから始めよう。分析したからといって処方箋が見つかるわけではないですが、少なくとも、まずは知るところからなはず。

書きながらだいぶグサグサ刺さってますが(笑)、ともかく、今日は一日楽しんで生きようと思います。どうあるべきか、じゃなくてどうしたら楽しいか、うまいこといくか。

今日も空は広い。

 

 

 

 

「不器用」「仕事ができない」は「個性」なのだろうか?

「どんな人もその人の個性を生かせる社会にしよう。」とよく言われますよね。耳にタコができるくらいいろんな人がいろんな言葉で語っているように思います。

でも、本当に私たちは人の個性を認めようとしているのでしょうか。

それならば、「仕事ができない」という言葉で傷つくあの気持ちはなんなんだろう。どうして人間性の全てを否定されたような気になるのだろう。

そして、私は高校時代の経験から(「私の経験」に書いてあります)自分が数千人にひとりのレベルで不器用だと思っていますが、「めちゃめちゃ不器用」なのは個性なんだろうか。不器用なことにメリットなんてあるのだろうか。いろいろなこと(たとえば改札機をスムーズに通ること、人にものを手渡すこと、水をペットボトルに注ぐこと、キャッチボールetc、etc.)がうまくできなくて、喜ばれたことなんて一回もありません。ため息をつかれたり、笑って許してくれるけれど内心あきれているんだろうなと思ったり。

たとえば「神経質」が個性だというのは分かりやすいですよね。他の人をいらいらさせたり時間がかかったりすることはありますが、その分仕事をきちっと間違いなくやる、という長所にもなります。

でも人と生きるうえで「不器用」は悪いことしか生まないし、お金を稼ぐのにも不都合だと思います。美容師さんや手仕事の職人さんになんて絶対なれないし、単なる飲食のバイトでもずいぶん店に迷惑をかけました。だから「不器用」=「他人より劣っている」んだと大学生の私は考えていました。そして周りの器用な人と比較してはいつも落ち込んでいました。

書いているだけで辛くなってきた(笑)。でももう少し書いてみます。

仕事についてもそうですよね。「仕事ができる」が最上級の褒め言葉で、「仕事ができない」は最低のけなし言葉という感覚がどこかにあるような気がします。「仕事ができない」ことは個性とは認められていないですよね。仕事ができることってそんなに偉いの、と言いたくなる気持ちもありますが、一方で仕事ができる人はかっこいいなあと感じるのもやっぱり事実なわけで。

「長所になりえない個性」「悪いことしか生まない個性」をどう認めていくのか、はすごく大切なテーマだと思います。

不器用はもう完全なる短所として認め、「でもあなた(や自分やあの人)は他の人にはないこんないいところがある」と思えるのが一番いいのかな。そうやって自分を認め、人にも理解してもらえると楽ですね。

でも世の中には「不器用なのは小さいころにしっかり遊ばなかったからだ」「しつけが悪い」「本人の努力不足だ」という言説があふれていますよね。「仕事ができない」に至ってはそれこそ「努力が足りない」「コツを身に着けていない」と言われてしまう。そもそも努力不足の何が悪いのかということもありますが。

だからまずそこから違うんだ!と言っていかなければならないですね。努力で変えられない短所もあるし、だいたい自分を変えようと努力して生きなければならないなんて意味が分からない。もっとどんな人も自分らしく生きていいはずです。

周りを見ると、あるタイプの人は堂々と生きていて、あるタイプの人は自信をなくして「自分はアスペルガーかも」なんて言っていて。でも、たとえば「神経質」という個性は許されて「人と関わるのが苦手」という個性は「障がい」とされてしまう世の中ってめちゃめちゃ怖いと思います。当人にとっては障がいと判断されることで楽になることもあるのだけれど、でもその奥に潜んでいる社会的思考回路は本当に人間に優劣をつけるような考え方なんじゃないかな。

長くなってしまいましたが、もっと人が全体的に肯定されるためには、どんな人でもそれなりに生きていける社会にしなければならないと思います。世の中弱肉強食だ、とかある種の人はホームレスになって当然だ、とかそんな社会では必ずこぼれ落ちる人が出て、その人の個性というのは否定されてしまう。

そのためにどうすればいいのかは、まだ答えがなくて暗中模索という感じです。一緒に考えてもらえれば幸いです。

今日も空は広い。

「就活こじらせスペイン巡礼記」【良記事紹介】

こんにちは。GWはいかがお過ごしでしょうか。

今日は、いいなあと思う記事を見つけたので紹介します。

onomiyuki.com

小野美由紀さんという方のブログです。

就活に失敗しパニック障害になったという小野さんが、「強くなりたい」と思ってスペイン巡礼の旅に出たときの旅行記です。

彼女の文章を読むと、めちゃめちゃ勇気が出るし共感します。それは「働くこと」や「生きること」について、狭い価値観にとらわれずに自分で考えているからだと思います。

「安定した会社に就職して、定年後の旅行なんかに憧れながら毎日働いて、結婚して子どもを生んで、老後はまったり過ごすのがあるべき人生だ」っておかしくない?という考え方に非常に共感します。老後のためだけに生きてんのかよ。

じゃあどう生きていくのがいいのか、ということには私自身まだ結論が出ていないんですが。でもやっぱり現在や、自分が本当に幸せだと思うことを大切に生きていくしかないのかな、というのが目下思うことです。将来の安定のために今を犠牲にするなんて、もったいない。生きていく中できっと何か見つかるはずだから、とりあえず今を自分に納得のいくように生きていこう、とこの記事を読んで元気が出ました。

就活に疑問を持つ人にはぜひ読んでほしい。コミュ力や自己肯定感などについても記事がありそうなので、見つけたら随時紹介していこうと思います。

傷口から人生。 メンヘラが就活して失敗したら生きるのが面白くなった (幻冬舎文庫)という本も出ているようなので、よければこちらもぜひ。

今日も空は広い。

 

 

夕(ゆう)

MAIL: r921k4u@gmail.com

岸見一郎・古賀史健『嫌われる勇気』【書評】

こんばんは。

今日は、ずっと積読だった嫌われる勇気をやっと読んだので、それについて書こうと思います。

これ「アドラー心理学」の本だったんですね。そうとは知りませんでした。フロイトユングに並ぶ心理学者と紹介されていましたが、本当かなあ(笑)

アドラー心理学によると、人は過去の原因が現在の自分を作っているのではなく、何か心理的な目的のために現在の状態を作り出しているのだそうです。これだけだとなんのことか分かりづらいですね。

たとえば、ひきこもりを例にとると「両親に虐待されたからひきこもりになった」のではなく、「親の注目を集め、丁重に扱ってもらうためにひきこもる」のです。だから、自分のことが嫌いな人も一歩踏み出す勇気を出せば変わることができる、というのがこの本の前提です。

さらに、アドラーによれば「全ての悩みは対人関係の悩み」であり、それを脱却するには「人は人、自分は自分が選んだ人生を送るのだ」という課題の分離と「周りの人が敵ではなく仲間だと思えるような共同体感覚」が必要なのだそうです。

じゃあ、課題の分離と共同体感覚のためにはどうすればいいのか?残念ながら、その点についてこの本は書いていません。書いているふりをしていますが、そんな机上の空論のような説明で人の心が説得できたら何の苦労もないじゃん、というのが正直な感想です。

この本は、確かによく人の心理の底を暴いていると思います。「自慢する人は自信がないのだ」とか、「他者への関心がなく、自己に執着しすぎである」とか。ああ、その通りだなあとかそういう人がいるなあ、という分析的説明としてはよくできていると思います。

でも、じゃあ「自己から他者へ目を向けなさい」と言われたところで、それができるかというとそれは全く別の話だと思います。私は以前「どうして自分は他人に関心が持てないんだろう」と自己を否定していましたが、その時にこれを読んでも「ああやっぱり自分だめだな」と思うだけだったんじゃないかな。

自分の心理状態を見つめることは大切だと思います。でも分析と一緒に解決策を知らないとただ辛いだけですよね。その辺がやっぱりこの本は足りないなと思います。

あともうひとつだけ書くと、正直「他人の役に立つこと、他人と関わることで自己承認が生れる」みたいな話は聞き飽きたし、違うと思います。私はやっぱり他人に関心が薄くて別れとかもあっさり終わらせてしまうタイプですが、別にそのままでもだいぶ自分を受け入れられるようになりました。人間の本当の喜びって、他者と関わることだけなの?もちろん、他の人といる時が一番楽しくて幸せだという人は多いと思いますが、大自然や美味しい食べ物や、素敵な小説といったものの方により感動を覚える、そういう生き方もありだと言いたい。周りに全く人がいないとさみしいし人と関わらずには生きていけないけれど、でも自分が必要とする以上に関わろうとさせてくるような社会はしんどいです。

現代社会の強迫観念というか規範をそのまま説教される感じがして、説教されたい人にはいいのかもしれませんが、あまり真面目に受け取りすぎないことをおすすめします。

今日も空は広い。

 

夕(ゆう)

MAIL: r921k4u@gmail.com